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3/21(土) 回想・其の14を追加

▼其の1『土方の話』― 函館・維新の記憶

和泉守兼定×堀川国広の回想

堀「兼さん、ここは函館だよ!」
兼「わかってらぁ。」
堀「これはつまり主が、いや、前の主が。」
兼「わかってる!」
堀「ひょっとしたら死なないですむかも……。」
兼「駄目だ駄目だ!てめえ言いつけわすれたか。歴史は歴史、良くも、悪くも。」
堀「でも兼さん、泣いてるよ。」
兼「うるせえ!」

和泉守兼定と堀川国広の前の主・土方歳三は、徳川幕府が政権を明治天皇に返還した大政奉還後、旧幕府軍として、新政府軍との戦いに加わっていた。

どこまでも戦い続けることを決意した旧幕府軍は、北海道に渡り、これを制圧。函館に首都をおき、五稜郭を占領して本拠地とした。

しかし1869年4月、新政府軍が北海道に上陸。
5月11日に函館総攻撃が行われ、土方歳三は銃弾によって死亡した。

刀剣男士は、過去の歴史を改変しようとする”歴史修正主義者”と戦い、歴史を改変させないようにすることが使命である。

そのため、歴史を変えさせない=前の主である土方歳三の死を肯定しなくてはならない。

堀川国広が言うように、もし歴史修正主義者が歴史を改変すれば、土方歳三が死なずに生き残る可能性がある。

和泉守兼定は、生まれてすぐに土方歳三の愛刀となった。そのため土方に対する想いは人一倍だろう。

前の主への愛情と葛藤がありながら、しかしそれでも歴史は変えてはならないという切ない話であるとともに、和泉守兼定の、自分の使命を貫く強い意思が感じられる回想である。

▼其の2『沖田の話』― 鳥羽・維新の記憶

加州清光×大和守安定の回想

安「ここが……鳥羽……。」
清「何湿っぽくなってるのさ。うざいよ?」
安「だって……沖田君とは、結局一緒に来れなかっただろ。」
清「そうねー。あの人、お前みたいな使いにくい刀好きだった分、体弱かったもんね。」
安「使いにくいのはお前も同じだろ。」
清「……そうね。ったく、俺たちみたいな刀の主は、長生きしてくれなきゃ迷惑だよ……。」

加州清光と大和守安定を愛用していた新撰組一番隊隊長・沖田総司は、当時「死病」と恐れられた肺結核を発症し、1867年には誰もがわかるほど病状が悪化していた。

翌1868年の1月、薩摩藩・長州藩ら討幕派VS幕府勢力による戊辰戦争の緒戦「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。新撰組は幕府勢力としてこの戦争に参加した。

しかし沖田は、鳥羽・伏見の戦いへ向かう途中で病状が悪化し、この戦いには参加できず、大阪へと後送された。

その数ヶ月後、療養先の千駄ヶ谷にて、25歳という若さで死亡した。

大和守安定は、よく切れるが腕の立つものにしか使いこなせない難しい刀といわれる。また、加州清光も実践的な刀であり、腕の立つ者が好んで使ったという。

沖田総司は、新撰組最強と詠われた天才剣士であった。そのような天才に愛される機会は、めったに訪れるものではなく、若くして亡くなった彼を偲ぶ2人の気持ちが読み取れる。

また、凄腕の一番隊隊長として非情に厳しかった沖田であるが、実は冗談好きで明るく強気な性格だったという。

はかなげな外見からは想像もつかないギャップのある彼らの性格は、沖田譲りなのかもしれない。

▼其の3『太郎と次郎』― 鳥羽・江戸の記憶

太郎太刀×次郎太刀の回想

太「故郷の近くまできたもんだ。」
次「また奉納されていくかい?」
太「いや、今は何百年ぶりかの実戦刀ですから。」
次「平和は退屈だった?」
太「まさか。平和になるために主を手伝っているのです。」

鳥羽(京都)から約130km先の名古屋に、太郎太刀と次郎太刀が奉納された熱田神宮がある。

熱田神宮は、三種の神器の1つ・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀っている、非常に格式の高い神社であり、数多くの刀剣が奉納されていることでも知られる。

太郎太刀が過去に実戦刀として使用されたのは、戦国時代・1570年の「姉川の戦い」の頃である。ゲーム中における現代の西暦は2205年であるため、彼が実戦刀と使用されるのは、635年ぶりとなる。

太郎太刀は、1576年に熱田神宮に奉納された。以来約600年もの間、使い手もおらず、世俗(現世)から隔離されて過ごしていた。この間、どのような気持ちで過ごしていたかは、彼の本丸での台詞から伺い知ることができる。

次郎太刀の「平和は退屈だった?」との問いに「まさか」と答えながらも、刀剣としての本来の価値が発揮されるこの戦いに、彼は自分の存在意義を見出しているのかもしれない。

▼其の4『無用の長物』― 江戸・江戸の記憶

同田貫正国×御手杵の回想

御「この時代、平和だった。」
同「ああ、平和だった。俺は評価が低かった。」
御「俺には出番がなかった。」
同「その我らがここで出番を得るとはな。」
御「皮肉なもんだ。」

徳川幕府が政権を取ってから約200年間、この江戸時代中期は、日本の歴史の中でも、特に平和な時代だったといわれている。徳川幕府の統治により、戦乱が起こらず、犯罪も少なかった。

そのため、武士は刀を持っていても使用することはほとんどなく、作られる刀剣も実戦刀から飾り刀へと変わっていった。

同田貫正国は室町時代に生まれた。飾りがまったくなく、非常に実践的な刀だったことから、戦国時代の武将に愛されていた。

しかし平和な時代においては、その飾り気のなさがアダとなった。実戦で使う機会もなく、観賞価値の乏しい彼の評価は低くなった。

御手杵は、その並外れた重量から実戦向きではなく、江戸時代においては、参勤交代の行列の馬印として使用されていた。

平和な江戸時代には、刀剣として必要とされなかった2人。自分たちが必要とされなかった時代を守るために、いま必要とされる。そんな複雑な思いが見受けられる。

▼其の5『悲しみの剣たち』― 大阪・江戸の記憶

鯰尾藤四郎×一期一振の回想

鯰「ここで、俺たちは焼けた。」
一「確かに、ここで焼けた。」
鯰「ここをやり直せば。」
一「駄目だよ。それじゃあ敵と同じになる。」
鯰「・・・・・・。」
一「信じよう。今の主を。」

徳川家康が日本を統治した江戸時代初頭。
豊臣秀吉の三男・秀頼の成長を恐れた家康は、豊臣家を滅ぼしておく必要があると考え、豊臣家があった大阪城を攻めることにした。

1614年に「大阪冬の陣」が開戦。
翌1615年5月7日の「大阪夏の陣」の最終決戦では大激戦となり、大阪城はこの日の深夜に炎上・陥落した。

秀頼を筆頭にした豊臣家の血縁は、助命嘆願を無視され、翌日自害。
また、徳川の雑兵は大阪城下の民衆に襲い掛かり、数千人が強奪・殺害の犠牲となったといわれる。

一期一振は豊臣秀吉の、鯰尾藤四郎は豊臣秀頼の愛刀だった。しかし、大阪夏の陣において、大阪城の炎上陥落時に、焼けてしまった。

徳川によって、主人である秀頼を貶められた鯰尾藤四郎は、この時深い恨みを持ったのかもしれない。

その後、徳川の手に堕ちた2人は、家康の命よって打ち直された。しかし一期一振は炎がトラウマに、鯰尾藤四郎は過去の記憶を一部失くしてしまっている。

もしこの大阪城陥落がなければ、2人ともこのような状態にならなかった。

にも関わらず、この歴史を守らなければならない、という、鯰尾藤四郎のやるせない気持ちが感じられる回想である。

▼其の6『安土の名工』― 安土・織豊の記憶

山伏国広×山姥切国広の回想

姥「久しぶりだな。兄弟。」
伏「カカカ!しかり、しかり!」
姥「楽しそうで何よりだ。」
伏「拙僧、すべてを笑い飛ばせるほどに強くなりたく。」
姥「強くなってどうする?」
伏「まあ、その時には戦も終わる。カカカ、美術品に戻るとするか。」
姥「能天気め・・・・・・。」

山伏国広、山姥切国広は、いずれも安土・桃山時代の名工・堀川国広作である。

国広は、宮崎県の藩士だったが、山伏修行など諸国放浪して刀工をつづけた。栃木を経て京都に住居を構え、堀川一派の祖となり一門は栄えた。

山伏国広は、国広が山伏修行をしていたときにつくったとされる。

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